誕
1962年(昭和37年)3月16日、大阪市城東区中浜の町工場の三男坊として生まれる。
中浜幼稚園、大阪市立中浜小学校、大阪市立城陽中学校、大阪府立旭高校、夕陽丘予備校を経て早稲田大学法学部卒業。
大学時代は(財)和敬塾で寮生活。
卒業後、松下幸之助氏創立の松下政経塾に入塾(6期生)、卒塾。
京都大学大学院高坂正暁ゼミに入学、衆議院議員当選により退学。
志
父が家電メーカーの孫請け工場をしていたので、小学校5年生から工場を手伝う。
ニクソンショック、石油ショック、円高不況を身をもって体験。
「下を向いて真面目に働いていれば、おまんまはついてくる」という父の教えが、世界の政治と経済の流れの中では変わらざるを得ないと実感。
松下政経塾時代にアメリカミネソタ州政府・ワシントンDCロビイスト事務所で研修。
帰国後、ミネソタ州政府の対日貿易、日本からの投資促進を担当した。
また、名古屋市大、関西外大、帝塚山大で学生を指導し、大阪薫英短大で教授を努め、現在は大阪人間科学大学客員教授、兵庫県立大学大学院講師(非常勤)を務める。
実績
政府においては国土交通副大臣を務め、国会においては東日本大震災時に衆議院災害対策特別(災特)委員長を務め、その後は衆議院経済産業委員長を務めた。
ライフワークの中小企業政策、日米関係、エネルギー政策では国会論戦をリードしてきた。
国土交通副大臣は筆頭として、街の道路から国境警備の海上保安庁まで幅広く担務をした。そして高速道路のあり方や尖閣の対応をすると同時に、国際会議の議長も務め、LCCの発展にも寄与した。
災特委員長として、震災後最初の法律である「津波対策の推進に関する法律」の制定に尽力をした。
経産委員長として、原発ゼロの日本のエネルギー政策の中核を担い、復興のための産業振興に努めた。
「萬相談所」「ワンストップサービス」と、大阪を始めとする組織団体や企業から頼りにされる議員として活動をしてきた。米国ワシントンD.C.のロビイスト事務所での研修も活かされたとも言える。
衆議院外務委員会と経済産業委員会で筆頭理事を務める。商工、労働委員会、科学技術、地方分権特別委員会で理事を、予算・逓信・法務・外務・運輸委員会・災害対策特別委員会で委員を歴任。
現在は、関西経済同友会副委員長、大阪JC特別会員、早稲田大学校友会代議員。
大阪大学大学院国際公共政策研究科アドバイザリーボードメンバーとしても活動した。